【スティーブン・キング ザ・スタンド】から学ぶ「本当の試練は災厄のあとに訪れる」

小説・エッセイ

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スティーブン・キング御大の「ザ・スタンド」は、強力な罹患率・致死率をもつ疫病により世界のほとんどが滅びてしまったお話。

内容を知らないまま読んだのですが、コロナ禍の真っ只中でなんとタイムリーな本を引いたことか・・・と震えました。

そして、コロナ禍だからこそ私たちが考えるべき、いまはあえて目をそらしている問題に気づいてしまったのです。

ちなみに最後の方にとんでもねぇネタバレがあるので、本をお読みになってから見ることをおすすめします。

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あらすじ

「フルー」と呼ばれる強力な疫病のウイルスがアメリカの基地から漏れ、数週間で人類はほとんど死に絶えた。

幸運にも免疫を持つわずかな人数が生き残ったものの、電力などのライフラインが途絶えた世界で孤立という、厳しい状況に置かれる。

彼らに共通するのは、恐ろしい闇の男、もしくは神に仕える老婆が出てくる夢を見ること。

主人公たちは夢の老婆に呼び寄せられるまま集結し、「フリーゾーン」で新しい社会を築いていく。

その一方、闇の男に呼び寄せられた者たちはラスベガスを拠点に武力構築を行い、フリーゾーンへの攻撃準備を進めていた。

闇の男は逆らうものを磔刑にし、恐怖により市民に君臨する。

一方フリーゾーンでは、神の意志を伝達していた老婆が失踪し、市民は導き手のない状態に置かれる。

闇の男がフリーゾーンにもたらす滅びを防ぐため、主人公たちは武器も持たされず旅立つのであった。

ねぇ、人類殺すの早すぎない?

数週間で人類はほとんど死に絶えた」ってのが起承転結の起だからもうやんなっちゃう。私が読んだのは上下巻単行本だったのですが、最初の50ページでもう不穏でお腹いっぱいだし、

上巻の半分くらいで「もうこれ以上は悪くなりようがない」状況になっちゃって、このあとどう話を進めていくの?と心配になってしまう。

「まさか自分がかかってないだろう」っていうおつむスカスカどもが無尽蔵にウイルスを広げていく様子は、まぁいまだからこそリアルにイライラできる。これは逆にコロナ禍時代の特権かも。

ただアメリカさんはアメリカだからこそ「はい収監!はい封鎖!はい監禁!」と対処を進めていけるのですな。ちょっと羨ましい。

しかし、法の施行側に立つ人間もどんどん滅びていくので、そこでまた別の悲劇が起きたりする。そうやって随分スピーディーに人類はほぼ全滅してしまうのです。早いよ!

ただ、テーマのひとつに「本当の試練は災厄のあとに訪れる」があるなら、早めに人類を一掃しちゃったのも納得できるのです。

本当の試練は災厄のあとに訪れる

この物語の試練とは「フルーのあと社会を作り直す試練」「悪との戦いにケリがついたあとの試練」「社会を作り直したあと自立する試練」などが挙げられるでしょう。災厄そのものではないんです。

キング氏の別著「アンダー・ザ・ドーム」でも、本当の試練は悪が滅びたあとにやってきました。

人が本当に試されるのは、戦いが終わったあとの生き方ではないでしょうか。

これをいまのリアルに当てはめるなら「コロナのあとの世界どうする?」ということにつきるかもしれません。

「実は必要ないもの」が明らかになってしまった世界。それを仕事にしていた人だっているでしょう。

「家に帰ったら手を洗いなさい」とうるさく言われて育ってきましたが、それは「他者が媒介したものを洗い流すため」

「他者は汚れの媒介要因である」ひいては「他人は汚い」というのが、いままでは「イメージ」にとどまっていましたが、いまや確固たる知識になってしまいました。

もし新型コロナウイルスを撲滅し、マスクやビニールカーテンが必要なくなるときがきて、本当に不安ゼロになれるでしょうか?

コロナでなくても他のいろんな菌は変わらず存在しており、飛沫や接触により媒介されることは変わりません。

一度真剣に意識した「他者は汚い」という荒みの名残が消え去らなければ、システムや価値観がコロナ禍前に戻ることも決してない。

私たちが今回得た学びは、このあとの世界をより安寧にするものか、それとも…

本当の試練は災厄のあとにやってくるのです。

ランドル・フラッグはどうして・・・

さてここからはとんでもねぇネタバレに入ります。ちなみにあくまで個人の考察です。

闇の男 ランドル・フラッグはなぜ滅びたのでしょうか?

フラッグは爆発によって滅んだのではないんですよね。爆発の直前に、存在ごと滅び去っているんです。

これは、フラッグのエネルギー枯渇により、そのとき大きくなっていた「神」のエネルギーに灼かれて滅んだのではと思います。

ここでちょっと「神は信仰により作られる」という所見について考えてみましょう。世界的にもあまり珍しくない考え方です。

出エジプト記では、モーセが山から帰ってこないことに剛を煮やしたイスラエル人が「そうだ、神作っちゃお」と金の子牛を作っていました。自分達で作ったのに、それを神認定して拝んでいたんです。

日本の歴史でも、ビッグな悪霊になりそうな霊が生まれると、先手を打って祀っちゃいますよね。人々が霊に注ぐ心のエネルギーを恐怖から信仰に変換することで「それ」の性質を変えて神にするんです。

神は信仰により作られる、つまり神は人が注ぐ心のエネルギーにより存在し、力を発揮するともいえます。

この理屈をもって逆にいえば、悪なるものは心の闇や恐れによって作られる

本文中に「ランドル・フラッグは実在しない、心の中の闇や恐れの象徴なのでは?」というセリフがありますが、これは間接的に正しいんです。

フラッグは市民の恐れを自分のエネルギーとしていました。そしてそれは主人公たちの公開処刑によりいっそう強固となるはずでした。

しかし「ごみ箱男」の持ち込んだものにより、市民の恐れの対象が一気に変わってしまった。

文中では兵器の場所など、いわゆる「滅びにつながる存在」を感じ取れる「ごみ箱」男が、ここでフラッグの存在を感じ取れなくなり、パニックを起こしています。

フラッグは人の恐れというエネルギーを一瞬にして失い、あの場ではラリーやラルフによる神への信仰の方が大きくなりました。

なにせ神は彼らに荷物も持たせず長旅をさせ、「己が場をコントロールする」という高慢を捨てさせ、頼るものが信仰しかない、晴れ晴れとした心理にまで追い詰めていたんです。

「うちに帰る」希望を捨てられないスチューを旅から脱落させたあとは、より彼らの信仰エネルギーは純粋になりました。別名「捨て身」。処刑シーンではさぞかし最高潮のエネルギーを発していたことでしょう。

メインキャラほとんど全員の信仰と命を供物とし、こうして善なる神は悪に勝ったのであります。

私こういう神様の手法を見るたび、言いたいことがあるんですよね。

…もうちょっと他にやり方なかったんかい!!

じゃあランドル・フラッグは・・・

じゃあランドル・フラッグはなぜ復活したんでしょう?

ラスベガスでは、フラッグへの恐れを再び持ちそうなヤツらはみんな死んでしまいました。あそこには存在できません。

代わりに彼が流れ着いたのは、いわゆる「未開人」の住む島。なぜそこでなければならないのか。

彼らの文化が先進的でないゆえに、より根源的なものに純粋な恐れを向けており、それを糧にできるから?拠って立つ(The Stand)エネルギーがそこにしかないから?

でもその理屈ならフリーゾーンに現れてもいいはずなんですよね。彼らは愛や共存の精神でバリアを張れてはいるものの、ランドルフラッグを恐れてもいるんですから。

「愛や共存の精神」が未開人にはないだろうってのも失礼な話だし。

完全版にするにあたっての書き下ろしだから、「ひっぱり」としてあんまり考察するところでもないのかな…

とにかく、目が乾いても腰が痛くても眠くてたまらなくても読んでしまう、「今いいところだからやめられない」が永遠に続くような本でした!

あとがき

ところで「アンダー・ザ・ドーム」のドラマ、ひっぱるためのキャラ改変が過ぎたせいか?打ち切りになったそうですね?ほんとうに残念!!

アンディ&シェフのBL共闘シーンと爆発シーンを映像で見たかったのに…

原作と違う展開ってどこに需要があるんですかね?本を読み終わったあと「違う展開で映像化してほしい!」って思うことってあります?

(あと、正直御大は映像に手を出さず、大人しく文字の世界にいてくれた方がいいんじゃないかなって毎度思うんですよね…)

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