ももひきを便器に流そうとした過去のある男、ストッキングと出会う─この本はそんな風に始まる。
女性にとって男性の世界がどう見えるかの意見は世に溢れているが、男性にとって、女性の世界はどう見えるのだろうか?
著者のクリスチャンにとっては、それはとてもキラキラして見えるらしい。
トランスジェンダーでもなくゲイでもなく、性癖として女装したいわけでもないクリスチャンは、どうして一年間も女装を続け「クリスチアーネ」として過ごしたのか。その生活から見えてきたものは、本当の自分らしさとは、本当の自然で純粋なセクシュアリティとは─
クリスチャンがクリスチアーネになるまで
きっかけは寒さだった。男性用ズボンに寒風が入りこんでくることに辟易したクリスチャンは「ストッキングを履けばいいのでは?」と思いつく。みすぼらしくて分厚くてダサいももひきは昔から大嫌いだ。
男性用の下着売り場はドブネズミ色かカレー色なのに、女性の下着売り場はピンクやブルー、あらゆるカラフルな色で満ち溢れている。
でもストッキングを履くなんて変態だろうか?ストッキングを履いたら男じゃなくなるのだろうか?
でも買っちゃうクリスチャン。そして履こうとしてさっそく破るクリスチャン。
この後、クリスチャンは女性服や人工胸やハイヒールなど女装アイテムを次々に揃えていくのだが、彼が悪戦苦闘するたびに、我々女性が今まで意識しなかったノウハウを再認できるのは面白い。
ストッキングは縮めてから履くこと、服は胸も基準に選ぶこと、ハイヒールで「行進」しないで歩くこと。誰に習った覚えもないが、確かにいつのまにか身についたノウハウだ。
最初はストッキングを手に入れれば良かったはずのクリスチャンが、女装をレベルアップさせていくのはなぜなのか。
それは、どんな性別でも持つ自分のメンタルの中の「女性性」を、フィジカルも女性になることで、より輪郭をはっきりとさせ浮き彫りにするため。いわばこれは女装という名の「精神修行」なのだ。
クリスチアーネを受け入れるかどうか
クリスチャンが女装という名の修行をおこなうことで、周りの人間も自分の価値観と否応無しに向き合わされていく。
「私に不満があるわけ?本当はそういう性癖なんでしょ?白状しなさいよ!」
と迫る奥さんは、いくら精神性の話をしてもどうしてもセックスに結びつけていく。まるで昭和のセクハラ親父である。
女性の友人はどんどん増えるが、男性の友人はどんどん離れていく。ビジネスマン系の男性よりクリエイティブ系の男性の方が、彼の女装に拒否感が強いのは興味深い。
道ゆく男性はクリスチャン、いやクリスチアーネに声をかけてセクハラし、女装した男性だとわかるとさらに激しくセクハラする。
僕は傷ついた。(中略)本物とは違い、人工の乳房は恥部ではないのだろうか?女装した僕は、誰に触られても文句が言えないのか?
「女装して、一年間暮らしてみました。」 クリスチャン・ザイデル サンマーク出版(2015) 99頁
と大ショックなクリスチャ、いやクリスチアーネ。
そのなかで、唯一友情を変えなかった友達がアンバーである。クリスチアーネをエスコートし、あくまでニュートラルに接するアンバー。
女装した男性であるクリスチアーネが語るからこそ、セクシュアリティの話を素直に聞けると認めるアンバー。
クラブでクリスチアーネのバッグに男性からの名刺がどっさり溜まったのを見て「俺も女になる!」と叫ぶアンバー。アンバーかわいいよ。
女性を中心にではあるが、クリスチアーネの味方は徐々に増えていく。興味深いのは、女性達がクリスチアーネに親しみを抱くのも、忌憚のない意見交換をするのも、相手が女性だからではなくて「女装した男性だから」ということだ。女性は女性にほんとうに警戒心を解くことはないし、男性に対してはもっとない。
クリスチアーネにあってクリスチャンにないもの
女装して日常を過ごすに従い、クリスチアーネも徐々に変化していく。まず感じた変化は「内面の重荷が降りたようなリラックス感」だ。
何をするにしても、自分は清く正しく、そしてかっこいい男なんだということを、自分自身と知人、特に女性に対してアピールすることが意識の中心にあった。今思うと、それは涙ぐましい努力だった。
「女装して、一年間暮らしてみました。」 クリスチャン・ザイデル サンマーク出版(2015) 140頁
と思い返すように、自分を常に大きく見せ、常に戦わねばならない男性世界のプレッシャーから解放され、能力の評価を気にせず、自分自身でいてよい時間を手に入れたことに、新鮮な驚きを感じるクリスチアーネ。
しかしそのリラックスと同時に、男性から離れた立場で男性のふるまいを見ることで、だんだんと彼らへの不快感を募らせていく。
女装を始めて以来、(自分自身を含む)男に対して、いい感情をもったことはほとんどない。いやな目にあってばかりだ。男は世界を、地球を脅かしている。でも男には感受性がないのか、自分たちが世界の脅威になっていることに気づきすらしない。
「女装して、一年間暮らしてみました。」 クリスチャン・ザイデル サンマーク出版(2015) 148頁
と、脅威的なスピードでフェミニストへ成長していくクリスチアーネ。だがクリスチアーネになって以来、立て続けに痴漢、強引すぎるナンパ、不躾なセクハラに遭っているので、これはもう仕方がないとも言える。
クリスチャンがクリスチアーネになって以来、新しく得たもう一つの女性的特徴は、視野の広さとアンテナ感度だ。この視野の広さは価値基準のことではない。隣に停まった車や、電車内での新聞の陰から自分をチラチラ見る男性の視線を全て捉えるなど、文字通り生物学的な視界の広さを会得している。
さりげないつもりで会話中に胸に留まる男性の視点。彼女を目にしたとたん、男同士で急に始まる「俺は金もってるぜ」アピールの会話。男性たちが小声で交わす、彼女の胸や足のラインの評価。彼女に見せつけるような乱暴な運転。
男性だった時には決してバレないと思っていたそういう思惑は、クリスチアーネにはバレバレで、アンテナ感度も飛躍的に向上しているといえる。
女性の世界はなんてカラフルで自由なんだろう!と、クリスチアーネとしての生活を謳歌するクリスチャン。しかし、女性たちと忌憚なく交流するにつれ、女性もまた女性という檻で抑圧されていることに、だんだんと気づいていくのであった・・・
興味深かったところ
読みながら興味深かったのは、クリスチャンは常に「〇〇をやったら男ではなくなるのだろうか?」と気にかけながらはじめてストッキングを履き、ワンピースを着、ハイヒールを履く。
「〇〇をやったら男ではなくなる」というのは、女性にはシンクロしにくい感覚だ。
少なくとも私は「女らしくはない」「女と見られない」事を多少気にする場面があったとしても、「これをやったら女じゃなくなる」かどうかを気にしたことはない。
一人の部屋であぐらをかいても、鍋からラーメンを食べても、「うるっせぇんだよちきしょう」と口走ったとしても、私は揺るぎなく女性である。
きっと、クリスチャンのこの感覚にシンクロできる男性は、たとえ一人の部屋でも小指でリップクリームを塗ったりするとアイデンティティが脅かされるのであろう。
「男である」には常に非常に細かいレギュレーションを満たしていなければならず、皮肉なことにそれを作ったのは男性である。と、クリスチャンは思っているし私も同感だ。
本当のリラックス、本当の自然で純粋なセクシュアリティとは─?をテーマにしたこの本。見返しに掲載されたクリスチアーネの写真の脚線美は必見。
学術的すぎることも小難しくもなく、ただクリスチアーネとして過ごす間の出来事をエッセイとして綴ったスタイルで、とても読みやすく、おすすめできる良本であった。