ただひたすら風見恭一郎について語りたい!なんでみんなもっと風見恭一郎について語らねぇんだ!!という叫びをひたすら擦るレビューです。
2024年夏に彗星のように現れ、ブルーリボン賞作品賞、日本アカデミー賞最優秀作品賞等かずかずの映画賞をぶんどりまくっていった「侍タイムスリッパー」。
主役の高坂新左衛門の人間性や価値観については皆さん絶賛されていますが、私の琴線に往復ビンタを食らわせていったのは風見恭一郎その人でした。
今回はラストまでめちゃくちゃネタバレしています。しょうがないでしょ!!ネタバレなしで語れるほど風見恭一郎という人物の魅力は甘っちょろいもんじゃなかったの!!
監督に申し訳なくてこの原稿の公開を7カ月待ちました。今回ははっきり言います。
本編未鑑賞の方は、この記事を読まないでください。
また、以下の考察に関してはすべて個人的妄想です。
孤独と自責のタイムスリッパー 風見恭一郎
「侍タイムスリッパー」と聞いて1番に思い出すのは、高坂新左衛門が「クライマックスの斬り合いに真剣を使いたい」と申し出るシーンだ。
「俺は、面白いと思う…」とそれに同意する風見恭一郎。
口調こそ大御所俳優のものだが、その眼差しはまさしく侍のもの。そして、落ち着いた口調とは裏腹に、その目にはみるみる涙が溜まっていくのだ……
そのとき「ああ、これは実は風見恭一郎の物語なんだ…」と思ってしまった。

風見恭一郎は、孤独と苦労と苦悩と葛藤のひとである。
彼が過去に人を斬ったのは正当防衛だったが「斬ってしまった」ことに狼狽し、とどめを刺すことを臆したのではないか。このシーン、隠しとどめ等、とどめに関する描写がなにもないのだ。
「とどめを…」と絞り出す刺客に対し、彼はただ初めて見るかのように己の刀を凝視する。
切り合った相手にとどめを刺さない。これは武士の名折れとされる。
かつ、動乱の幕末で長州藩士として役目を果たすこともなく、彼は雷鳴とともにはるか彼方の世界へと独り飛ばされてしまったのである。
飢えに負け、侍として固辞するべき施しを貰い
組み伏せられ、頭を下げて
ただひたすら現代社会に適応しようと孤独に奮闘していたら
いつのまにか「先生」と呼ばれるようになっている。
刺すべきとどめも刺せず
参ずるべき戦いに参ぜず
これだけでも侍の道に反するのに、そんな自分が「先生」と呼ばれることはもっとも武士道に反しているのではないか。
しかし彼は、その苦悩を誰にも言えないのである。
「恭」という字の通り、彼は先生と呼ばれながら誰にも驕らない。
心配無用ノ介こと錦京太郎などの後輩を可愛がったのは、敬われる資格のない自分を敬う彼らへの、せめてもの罪滅ぼしだったのではなかろうか。
そんなとき、彗星のように現れたのが高坂新左衛門である。
風見恭一郎のともしび 高坂新左衛門
未だ会わずとも、彼の存在を知ったことは風見恭一郎の孤独をどれだけ癒しただろうか。
この世でたった2人だけの侍タイムスリッパー。
会議室に呼び出された高坂を振り返る風見恭一郎をいま一度見て欲しい。そのサングラスの奥の眼差しよ。
イマイチ現代社会に馴染めず、しかしそれでも周りに愛される高坂新左衛門の姿は、ただ独り、右も左も分からぬ世界で秘密を抱え生き抜いてきた風見の苦労を癒し、
剣を振るえなくなった風見に「侍らしくできることを」と生意気にも発破をかけたことは、侍の道から目を背けてきた苦悩を癒し、
かつ、最後は真剣を交えたいと申し出ることで「信ずるもののために命をかける」もののふの本懐を遂げる場所を作り、抱え続けた孤独な葛藤も癒してくれるのだ。
あーーー!風見恭一郎ーーーー!!
彼が「侍の想いを世に知らしめる」ために時代劇を作ることは、果たせずにきた務めや人を斬った罪悪感と向き合う決意のあらわれであり、
誰ぞあろう高坂新左衛門の存在が、挫けそうになっても前に進む力を与えてくれる。
高坂が「先生」である風見にどれだけ無礼な態度を取っても、不快な顔ひとつしないのも頷ける。
だって彼は風見恭一郎、いや、山形彦九郎のメシアなのだ。だから「貴殿でなくては、ならないんだ」
無念にも歩み切ることが出来なかった侍の道をなんとか模索する風見にとって、同じ無念を抱えつつも己の道を進む高坂の姿はともしびなのである。
「侍タイムスリッパー」は高坂新左衛門が主役の映画だから、本人がタイムスリップしたことを知るまで、現代の世界で居場所を見つけるまでの描写は当然丁寧に丁寧を重ねてされるのだが、
風見恭一郎のそういった過程はごく短いモンタージュでしか描写されない。
が、あの侍の眼差しに涙がみるみる溜まるあの数秒で、そしてそれを演じるのが冨家ノリマサ氏だからこそ、
彼の重ねに重ねた果てしない孤独と苦労と苦悩と葛藤をこちらは読み取ってしまうのである。
あーー!風見恭一郎ーーー!!あーー!冨家ノリマサ氏ーーー!!
末路を迎えた藩を想い、せめて手向けに果たそうとした藩命も結局果たせず、「俺は情けない男だ」と咽び泣く高坂。
それに対し、
お互いあの時代を精一杯生きた、それでいいじゃないかと笑いかける風見。
この時に風見恭一郎、いや、山形彦九郎も己をついについに許せたのである。
高坂新左衛門と山形彦九郎 武士としての「格」

風見恭一郎から高坂新左衛門への眼差しには、どこか羨望があるように思う。
切られ役の列に紛れてお弁当を貰ってしまう山形彦九郎に対し、空腹ではないと言い張る高坂新左衛門。
侍としてできることを模索した結果、映画を作ろうとする風見恭一郎に対し、ストレートに命のやり取りをしようとする高坂新左衛門。
「真剣で斬り合いたい」なんて、風見恭一郎に言い出せることではない。もし大御所俳優がそんなことを押し通せば役者生命の終わりかもしれない。
しかし高坂新左衛門は役者以前に侍である。信じたもののために命をかけるのがもののふの本懐。役者生命の終わりなど、命の終わりの前ではなにを恐れることがありましょうや。
江戸幕府の終わりについては「そんなこと」と笑い飛ばしながら、侍の想いを知らしめることについては目が血走る風見恭一郎。なれど、彼にできることは映画を作るという、あくまで社会通念に沿った昇華にとどまっている。
これらのことから、高坂新左衛門と山形彦九郎の侍魂の「格」は、やや高坂が上にあるように見える。
だからこそ、風見の目には高坂に対する羨望が見えるのだろう。
終幕後

7カ月待った思いを語りつくせて私は満足です。高坂殿のことをあまり書きませんでしたね。申し訳ない、でもあなたのこと大好きよ。
初回鑑賞では彼がショートケーキを食べて「これは高価なものでは…?」と声を震わすところから泣いていました。
(ちなみに2回目鑑賞、山形彦九郎に関してはタスキをかけるシーンから泣いています)
国のために死を厭わない人があまりいない今の日本では、ケーキを食べるだけで国まで想ってしまうあなたの姿は眩しすぎる……
その輝きが、映画館を出た外の世界や、これから食べるいろいろなもの、ひいてはいまの世界で生きるということに光を添えてくれます。
この映画のことを忘れる日が来ても、彼に与えられた「普通だと思っているものって、実は尊いんだな…」という価値観は一生残る人も多いでしょう。
「侍タイムスリッパー」。単なる娯楽には決してとどまらない、素晴らしい映画でした。