惑星ソラリス‐100年以上も研究対象になりながら、星を覆う海が意思を持つこと以外はほとんど何も判明しない謎の星。心理学者クリス・ケルヴィンはソラリスの上空に設置された研究ステーション内の調査のため、この星に派遣される。そこにいたのは精神的に限界を迎えた研究員たちと、ここで会うことはありえない「あのひと」だった。
というのが、スタニスワフ・レム作「ソラリス」のつかみである。このソラリス、映画が2作作られているうえ、日本語訳の本も2種ある。
1977年刊行の「ソラリスの陽のもとに」は言語であるポーランド語からロシア語に翻訳されたものを、日本語に重訳したもの。ただ、ソビエト政権下の検閲がらみで削除された部分がある。その後、原典から直接翻訳した新訳「ソラリス」が刊行されている。
しかし、この「ソラリス」にはつっこみどころがまぁたくさんあり、「ソラリスステーションがおかしいぞ!だれか調査員を派遣しろ」という理由で派遣されたであろうクリスがもうけっこうおかしい。そりゃあソ連も検閲まったなし!なイカレ具合なのだ。
みんななにかが憑いている
荒廃したソラリスステーションに到着したクリスはまず、人工頭脳研究者スナウトに会うが、スナウトは非常に神経過敏になっており、クリスの相手どころではない様子。
「1時間後に来てくれ」と言われたクリスが仕方なく屋内を徘徊していると、半裸の豊満な黒人女性とすれ違う。研究ステーションにいるわけがない人物に目を疑うクリス。
スナウトとの再面談にて、ソラリスステーションの研究乗務員で、自分の友人でもあったギバリャンが自殺していることを知りショックを受けるクリス。その後、もう一人の研究員サルトリウスの部屋に行くが、サルトリウスが絶対に見せたがらない部屋の中からは子どもの声が。そろそろ頭が限界になってサルトリウスに激昂してしまうクリス。心理学者らしいところがまったくないクリス。
その後、ギバリャンの死体安置所で、彼に寄り添う半裸の黒人女性とまたもや会ってしまうクリス。
「自分は狂っているのではないだろうか・・・」
当然の思考に達したクリスは、答えを知り得ない計算を解いて正解と照らし合わせることで自分の正気を証明する。
「やっぱり狂ってないんだ・・・じゃあもう寝よう!」
私はこの時点でこの主人公に共感することが難しくなる。異常事態が起こっている知らない場所で、原因究明をほっぽらかして寝るか?
387ページある文庫本の中で、クリス到着は13ページ、56ページで黒人女性と会い、87ページの死体安置所でまた会い、94ページで寝ている。私だったら寝ない。絶対寝ない。
そして次の日、目覚めたクリスにも何かが憑いているのだ。
クリスに憑いたのは、昔自分のせいで死なせてしまった恋人ハリー。どうもここで憑かれるのは、それぞれの頭の中のもっともやましく、目を背けたい記憶の象徴が具現化されたもののようなのだ。
スナウトによれば、過去の現実が具現化されればまだ良い方で、妄想しただけのやましい記憶が具現化されるという、最悪な生き恥もあるらしい。・・・ギバリャンさんはその女性になにをしたんですか。
さて、目の前のハリーが本物の彼女ではないと確信したクリスは、すごい非人道的な方法で彼女をむりやり厄介払いする。ちなみにドラえもんでは増え続ける栗まんじゅうが同じ方法で厄介払いされていた。
しかし、一晩寝るとハリーは戻ってきてしまうのである。
ちなみに、戻ってきたハリーは厄介払いされたハリーと同じ個体ではないようだ。クリスの記憶の中のハリーなので、自分が死んだことも知らない。
このそれぞれの「お客さん」は、ソラリスの海が送り込んでいるのだろうという結論に達する研究者たち。
そしてクリスは戻ってきたハリーを前に「もうこれはこれでいいんじゃないのこっちが慣れていけば」という投げやりな結論に達してしまうのだった。しっかりしろクリスーーーー!!
ちなみにクリスが「もうこれでいいや」となったのは文庫本160ページあたりで、276ページの頃には「僕は過去のハリーではなくて「君」を愛しているんだずっと一緒にいよう!」となってしまっている。己の心理のコントロール力が患者なみのクリス。
スナウトに「彼女と一緒に暮らす。彼女を化け物と言うな!」とかっこよく啖呵を切るも、冷静なスナウトの
「あれが化け物の姿だったら処分するのではないか?」
という問いに「確かに」と言ってしまうクリス。
読後の私が
ソラリス読了。ヘタレ!ヘタレ!クリスのヘタレ! #ソラリス
— のらいぬ (@DamaskAyame) 2018年2月11日
という感想を抱いたのも仕方がないことなのである。
「交流」という言葉のエゴイズム
NHK「100分de名著」のソラリス回によると「ソラリス」のテーマは「未知なるものとのコンタクト」であるらしい。
コンタクトとはあくまで接触であり、深い交流ではない。しかし我々は「コンタクト」と口にしながら、その実は交流までを期待しているのではないだろうか。
交流は接すること以上のもの。つまりお互いがわかり合うことを目標としている。
実際、著作物の中の「良い宇宙人」は、わかり合えそうな設定であることが多い。足が二本、腕が二本と人間に近い形で、目も奇異を感じるほどには多すぎず、話す言葉は翻訳され、私たちと似たような善悪の価値観を持っている。
未知へ心を開いているようでありながら、その実は理解できる形、つまり期待通りの反応を求めている。著作物のなかの宇宙人のスタンスは、友好か戦争か観察か中立で、それはどれも地球人が地球で地球人に取ってきたスタンスだ。
ソラリスを研究していた過去の研究者も、海へ様々な形の刺激を与えながら、期待通りの(理解できる)反応が帰ってこなければ実験失敗としている。
つまり我々は、理解できない形のコンタクトは、コンタクトとカウントしないのである。
答えの形に期待を持つことは、一種のエゴイズムとも言える。「なんか返ってきたけどわかりませんでした」で満足できないのは、こちらが納得する結論しかつけるつもりのない、エセの姿勢の接触だからだ。
しかし、理解できない接触に繰り返し相対させられ、そのエゴを封じられたとき人間はどうなるのか。
私が興味深かったのは、人間がソラリスの海を理解できないように、ソラリスの海も人間をいまいち理解できていないらしいということだ。
クリスの記憶を元にハリーを細胞レベルまで完璧に合成した海は、そのハリーがクリスのために自殺するほど苦しむことを予測していただろうか?
たぶんしていない。一個体が消えたことを察知して新しいものを送り「ターゲットのそばに存在し続けさせる」強固な意思があるなら、送り込んだものが自主的に消える可能性を残しておくはずがない。
海が作ったハリーは、完璧ではあるが完全ではなかった。
しかし、海と人間の違いは、海はその交流のすれ違いをジャッジしないということだ。ラストでミモイドが出てきているので、しつこく「お客さん」を作り続ける力もあったはずだが、そうはしなかった。
この件に関する海のスタンスは「ふぅん」であったように思う。
自分の思惑と相手の思惑が同調することに期待せず、すれ違ってもただ「ふぅん」と思うのは、非常に勇気のいるスタンスだ。未知のものを相手にするときは、何が返ってくるかある程度予想をつけて心の準備をしておく方が、たとえ傷を負うとしても浅く済む。
すれ違いに相対すると「どちらが正しいか」と咄嗟にジャッジしようとするのが人間の防御本能であり、ただ「ふぅん」とニュートラルでいることはなかなかできない。
ジャッジしないということは強くなることであり、大きくなることであり、それを人は成長と呼ぶ。
ラストシーンのクリスはこの成長へ達しているように見える。わからないことへわからないまま心を開き、防御のない心の柔肌を、未知なるものへ晒す勇気を体得している。
最後の最後まで来て心理学者クリスは、なんとかかっこよかったのだった。
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