【モモちゃんとアカネちゃん】に漂う不吉と大人の事情【モモちゃんとアカネちゃん 松谷 みよ子】

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アラフィフ、アラフォー世代なら誰もが読んだであろう松谷みよ子先生の代表作【モモちゃんとアカネちゃん】を読み返す機会がありましたので、備忘録を残しておきます。

結論から言うと、松谷先生は私の中でもう先生ではなく巨匠です。【モモちゃんとアカネちゃん】は児童書の形をとりながら、子供時代の美しい思い出にただ浸ることを許さない「松谷メタファーワールド」の魔窟であったのです。

その老獪で意味深な伏線は、この本に漂う4つの不吉から読み取ることができます。

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その1.靴だけ帰ってくるパパ

元気なモモちゃん、生まれたばかりのアカネちゃん、優しいママの楽しい家族が過ごす日常を描いたはずの児童書【モモちゃんとアカネちゃん】にちょいちょい漂う不吉その1が「靴だけ帰ってくるパパ」です。

コツコツと靴音を鳴らし、チャイムを鳴らして帰宅するパパ。しかし玄関に行ってみると靴しかない……

ここの本文に「靴にどうやってご飯を食べさせてお風呂に入れればいいのか、ママは途方に暮れてしまいます」とあるのでママもう相当やばい。心が疲弊してる。

その後に「パパは靴だけの時もあるけどお客さんを連れてくる時は本体がいる」という描写があるんですが、これが文字通りならパパは卑怯モンだしママの心理描写ならさらにやばいのです。

その2.ママを狙う死神

パパが帰ってこずひとり寝のママ。ある時から夜中に死神が現れるようになります。

「まだ行かない」というママに「いや、来る」と引っ張る死神。

まさに引きずられようとしたその時、アカネちゃんの声がして死神はかき消えるのですが、これは「出でたばかりの生の明るさ」が死神を祓った描写の裏に「旦那に捨てられそうで死んじゃいたいけど子供がいることを思い出したママ」のあやうい感じ、と受けました。

それを明示するように、死神はその後も頻繁にママの前に現れるようになります。

その3.森の中の老婆

死神に悩まされ続けるママは、深い森に住む老婆に人生相談をしに行きます。

「もう疲れた。連れていかれてもいいと思う時がある」とママはもらします。

老婆は枯れかけた2本の木が1つの植木鉢に寄せ植えされている様子を示し、その木を植木鉢から土へ植え替えました。

「死神が来たから、枯れかかっているんじゃない。枯れかかったから死神が来たんだよ」という老婆の言葉が印象的。原因を見誤ってはいけません。

すると1本はそこで根を張って元気を取り戻し、もう1本は土を払って歩き始めます。ママは根を張る木、パパは歩いて行く木というわけです。

歩いて行く木の枝には、ピカピカ眩しく光るやどり木が。……不倫かなぁ。そんな空気。

「歩いちゃいけないなんて思わない。でも歩き方が……」

というママに「おまえさんはやどり木にはなれないから、仕方がない」という老婆。ママには根を張って守らないといけないものがあります。

「ったくこういう男ってさぁーーーー」と思わせる貴重な児童書。松谷巨匠の意味深テクが映える一章です。

その4.ママとパパのさよなら

ママと子供達は違う街の新しいお家に行くことになります。「あんた歩く木なんだからあんたが出て行ってその家譲りなさいよ!」とパパに突っ込まずにはいられません。

ご近所やお友達とのキュンとする別れのあと、無人になった舞台にやっとパパが現れます。本体です。忘れられていった赤ん坊の鞠を眺めて肩を落とし、とぼとぼと歩き去るパパ。

……あんたそんな哀愁漂わせる資格ないんだからね?

みんな成長していくんです

子供も成長していきますが、大人も必要に応じて変わっていかなければいけません。そう教えてくれる【モモちゃんとアカネちゃん】

大人になって読み返してみると、松谷巨匠のメタファー技が冴え渡るなかなかエキサイティングなお話でした。子供の面倒をちょいちょい見てくれたり、新居に到着したら出迎えてくれる(しかもすでに中で料理をしている)優しい森のくまさんにもつい穿った視線を向けたくなります。読み進めるほど猜疑心が止まりません。

途中から子供達の成長ぶりより大人の事情の方に気を取られっぱなしになる、家族みんなで楽しめる一冊、久し振りに読み返してみるのはいかがでしょうか。

追記:どうも松谷先生の実体験が入っているらしく、エッセイが出ているようです。読むもよし、思い出を大事に読まぬもよし。

(旧ブログからの移行記事です)

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