【太宰治】「右大臣実朝」に見る太宰の生涯のテーマ「卑しさと高潔さ」

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太宰治
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日本人作家、少なくとも明治の文豪の中で「卑しい人間」を描くことにおいて太宰の右に出る者はいないと思う

処女作「列車」の語り手の偽善ぶりには思わず眉をひそめさせられ、遺作「グッド・バイ」の主人公はもう遺作にふさわしくまぁ卑しい、吐き気を催すほどである

悪い、とか鬼畜ではなく卑しい、と表現するのは、彼らはそれぞれ自分をそれなりに善人だと思っているし、良い人間のスタンスを保ったまま物事を丸く収めよう、として結果甚だしく卑しくなってしまうのである

あのメロスでさえ、苦しい道中に一瞬卑しい考えが頭をよぎった。その高潔さで暴君を改心させるという美談の主人公でさえ、完璧に高潔であるということは許されない

しかし、実朝は違う

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太宰念願の一編「右大臣実朝」

「右大臣実朝」に対する太宰の思い入れは殊の外深かったようで「精神病院に強制入院させられた間も、苦しい時は実朝(を書くこと)を思い出した。もう三十五歳にもなることだし、中期の佳作を残すつもり」「実朝を書くことは少年の頃からの念願だった」など、執筆前から大変な熱の入れよう

「文学界」に掲載された短編「鉄面皮」の内容ときたらひどい。周りの作家はちゃんと小説を出しているのに「今実朝って小説を書いてるの。自分の小説の宣伝とか笑われちゃうかなぁ。恥知らずだって思われる?じゃあ題名は鉄面皮にしちゃおう。実朝の内容はねぇ」と、実朝からの抜粋文で一編作ってしまっているのである。これで原稿料もらったの?!

どうして太宰治は「右大臣実朝」の人生を描くことにそこまで入れ込むのか

それは太宰が実朝の中に、ずっと追い求めてきた「理想の高潔さ」を見たからではないだろうか

卑しいってなんだろう 高潔ってなんだろう

紅の豚のキャッチコピーは確か「カッコいいとは こういうことさ」だった。太宰の作品の多くにキャッチコピーをつけるとしたら「卑しいとは こういうことさ」になると思う

卑しいとはこういうこと。じゃあ卑しくないってなんだろう、高潔ってなんだろう

数々の作品で世間にも、そして自分にも問い続けてきたその答えを、太宰は源実朝の生き方ふるまいに見たのではないか

その思惑を表すように、「右大臣実朝」の中で実朝を囲む人物の描写は大体ひどい。実朝に対して心無い俗言を流布する浅はかな世間、和歌を愛する実朝の寵愛を得ようと右往左往する武芸派の無様さ、

「私のような下賎なものにはわかりませんが」と嘯きながら、北条家を「下品でした」、鴨長明を「見どころもない下品の田舎じいさん」とズバッとこき下ろす語り手もなかなかに卑しい

その中でただ実朝だけが、寛容で聡明、高雅で清廉なものとして描かれる。まさに神性、一人だけ神なのである

これを理想の高潔さとするなら、ちょっとハードルが高すぎる。太宰の目に人間の卑しさばかりがクローズアップされて永遠のテーマとなるのも、ある意味致し方ないのである

鴨長明は卑しすぎて見てられない

和歌を志すものとして(嗜むまで行ってないの、志してるだけ)、実朝と鴨長明の対話の描写に多くを割いているのは嬉しかったりする。まぁそのほとんどが「長明がいかにみっともないじいさんか」という描写な訳だが

酒宴のマナーがなっておらずひとり浮く鴨長明

実朝に話しかけられても「は?」などと答えて挙動不審の鴨長明

隠遁生活について尋ねられても「やってもいないならわからないだろうから説明できない」とすごい無礼な鴨長明

そのくせ和歌のこととなると実朝をベタ褒め、しかし「周りのセンスが悪いから成長できていない。ワシが一緒にいてあげる」と豪語するも実朝にさらっとフラれる長明

鴨長明が「どういうつもりで」実朝に会いにきていたかは諸説あるようだが、私はやはり藤原定家を意識していたのではないかと思う

実朝が教えを乞うのは定家である。定家は和歌の天才。しかし長明は秀才。和歌の流行を作り出せるトレンドセッター定家と、定家スタイルをどうにか真似て時代を生き残る長明

しかし長明は歌会で定家に圧勝した過去だってあるのである。もし家を継げていたら身分だって追いついたかもしれない

しかしそれも叶わぬ今、源実朝が定家よりも自分を認めたら・・・?

この思惑は絶対あったはずだ。「一切の放下はできましたか」と実朝に尋ねられて「名誉欲だけはどうしても捨てることができません」と吐露してしまう長明。そして結局実朝にフラれる長明

「右大臣実朝」においてこの場面だけは、実朝の高潔さが長明の卑しさを引き立てるにとどまっている。作品の中でもっとも詳細で、しつこいほどに具体的な対話が描写されている。この数ページの中では、主人公は実朝ではなく長明なのだ

実朝の人生のクライマックスはここではないが、太宰の筆のクライマックスはなぜかここなのである

そうすると・・・やっぱりこの一編は、実朝の高潔さを描くことによる「卑しいとは こういうことさ」のいつもの太宰だったのかもしれない

 

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