カマキリに引くという選択肢はない

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(今回虫ダメな人はダメな話です)

私の実家は一応東京都にあるが、通称「東京のチベット」と呼ばれ地図上でも東京都のエリアの端にかろうじて引っかかっているような位置にある。ちなみに実家のエリアはその「〇〇市のチベット」と呼ばれている。すなわちチベットのチベットなのであって大変田舎なのだ。

田舎なので当然虫が出る。虫は玄関の前に、ベランダに、網戸に、洗濯物に存在し、そのせいで虫嫌いの私は外出を取りやめざるを得なくなったり、雨に濡れゆく洗濯物をただ見つめたりしてしばしば過ごした。

特にカマキリとセミがダメだ。ヒューマンとかけ離れたフォルム、触れるだけで折れそうな繊細な足と薄羽、飛ぶ時のバタバタさ、唐突に向かってくるサプライズ要素、とにかくとにかく全てが生理的に受け入れられない。

しかし、私の人生に滅多にない感動と理解をもたらしたのもカマキリであった。

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産むということ。死ぬということ。

夏の暑い盛りを過ぎてもカマキリはまだまだいる。カマキリ嫌いの心が休まるのを許さぬかのように、洗濯物の隙間、カーテンを開けた目の前の網戸、ベンチから持ち上げたカバンの端に現れこちらの心拍数と血圧にダメージを与える。

その日は庭掃除をしようとした竹箒の中にカマキリがいた。

「・・・っうおぉぉぉおぁ!」といういつもの悲鳴が出たが、よくよく見るとそのカマキリは死んでいるのであった。正確にいうと、竹箒の中で産卵して穂の根本と卵の間に閉じ込められて死んでいるのであった。

私はカマキリが大嫌いだが、この光景に言葉を失うほど感動してしまった。

諸説あるが、カマキリのメスは一度の産卵で死んだりはしないらしい。最後の産卵で力つきることもあるが、それでも即死ではないらしい。

カマキリは当然のごとく、卵を破壊して脱出するより死を選んだのだ。

本能ってすごい。とにかくなんだかすごい。

この先はカマキリとは全く関係ない話なので読後を良くしたい人が読む必要はない。

カマキリの姿に感動すると同時に、それまでモヤモヤしていたある価値観に理解が訪れた話だ。

子供を持つ人の「子供を作ってよかった」という話は聞いていてとても楽しい。人の幸せな様子やそのおすそ分けはほっこりするし嬉しいものだ。ただ「みんながぜひ作るべき!」という話に発展するとちょっとついていけない時がある。

ちなみに私は子供を欲しいと思ったことが一度もない。30後半になれば思うよと言われ続けてもうその30後半も過ぎ去ろうとしているがその時はまだ来ない。状況が許さないからとかではなく繁殖欲自体がさっぱり出てこない。

だから「みんなも!(あなたも!)あなたも!(みんなも!)」とミュージカルのごとくテンションを上げていく人に稀に当たると、反発より恐怖の方を強く感じる。

職業や収入の話なら「人それぞれだよね」で済ます相手がこの件だけは「あなたも」産んだほうがいいというスタンスを頑なに動かさない。別にいいじゃないか人のことなんだし。そっちが経済の話をするならこっちはエネルギー問題の話をするぞ。

稀にこのタイプの人がヒートアップすると「これから生まれる子の権利を奪っている」など0概念を無視した物理捻じ曲げ技や、「子供は親を選んで生まれてくる」などのファンタジーを駆使してくる。別に個人的にそれを信じているのはちっとも構わない。しかしファンタジーを論議の根拠に使うのはナンセンスだし、他の話題なら理論的だった相手が急に宗教的に豹変してしまう現象を恐ろしく思うのだ。

でもこのカマキリ事件でやっとわかった。この理論には本能が多分に加味されているし、産むという本能にスイッチが入るとそれは、生きる本能と引き換えられるほど強いということが。

この現象はお腹が空いている人と空いてない人の「食事をするべきか」という価値観にも似ている。例えば目の前に「空腹を感じたことがないので一生完全栄養ドリンクだけで生きていくことにした」という人が現れれば私だって「えっちゃんと色々食べた方がいいよ!!」と言うだろうし、その人が「食べるより明らかに効率的だし私のことなんだからいいじゃない」と話を終わらせても「食べた方が人生充実するのに・・・」としつこく思っていることだろう。

本能はしばしば論理を凌駕し、その本能を感じない側にはそれを理解することができない。

ただ、論理より本能や感情を愚かだと思うのは正しくない。全ての論理やシステムや行動は突き詰めれば幸せになるためにあるのだし、幸せというのは感情だし、感情を満たすというのは本能である。本能は確かに論理より人間の目的に近い位置にある。

そもそも「産む本能」のスイッチが入らない私だって「他のことを望む本能」のスイッチが入っているにすぎない。それは自由だったり、子育てより露出度の高い成果への承認欲求や達成感だったりする。

理解しておくべきなのはどの本能についてでも、お互いが「相手の理論構築には本能が加味されているし、それはそれで大事なことだな」とわきまえないと、相手への不遜に繋がるということだ。

空腹を感じる側が、感じない側へ「本当に美味しいものを食べたことがないんだな」や「自分探し時期にストイックになるのは幼いから」と思うのは不遜であるし、

空腹を感じない側が、感じる側へ「食欲に支配されて意地汚い」「執着が過ぎて支離滅裂で滑稽」と思うのも不遜である。

本能を感じる側も、その件については感じない側も、このことを理解していればお互いモヤモヤしなくて済むし大人になれる。軽視も不遜も経由せず「入ったスイッチの違いだな」とただ許容すればいい、それだけの話だ。

ちなみに竹箒の中で死んでいたカマキリとその卵については、カマキリ嫌いすぎて触れることもできず処分には至らなかった。

が雪の時期に毎日せっせと箒を雪の中に沈める間接処分には励み、その卵が孵ることはなかった、と思う。

次の夏中ビビって過ごしたくないという私の危機管理本能がカマキリの与えた感動に競り勝った、という結論でこの話は終わるのである。

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