大人になっても親を恨むのは【幼稚】だからなのか

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この話を読んで欲しいのは以下のような人です

もうとにかくタイトル通り、親を恨むのがどうしてもやめられないけど【幼稚】なことみたいだしやめたい。でもやめられない!!と恨みと恥と罪悪感の間で苦しい人。

あと「引き寄せ順調に頑張ってるはずなのにネガティブな事象のシンクロが消えないなぁ・・・」と思っていた時に、この話が書けたことで「あのネガティブはこのポジティブに続くのか!!」とすっきりしたので、引き寄せの法則に詰まっている方もよかったら読んでください。

長いよ。言っとくけど長いよ。

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産んでくれたんだから、恨んではいけない という風潮

「どんなひどい親でも産んでくれたことには変わりないんだから」という言葉を吐く人がいる。それを聞くたび「クジラは賢いから食べちゃいけない」という主張を連想してしまう。

文節の間に理屈が通っていないように思える。それに「どんな」というからにはひどい親のデータをさぞかしお持ちなのか。家族心理学の博士か何か?

そもそも「産んで育てる」という行為は産む側の希望を叶えているのであり、された側が結果的に感謝するのは美しい話だが別列に語られるべきである。・・・私はADHD故か理屈っぽくてすごいしつこいのだ。 

もちろん口には出さない。これも「なんでも/親のせいにするのは/幼稚である」という文節間の理屈が繋がっていない(ように思える)セリフで、軽蔑とともに片付けられるからだ。

しかしその気持ちを捨て去りきれない人は世の中に大勢いる。SNSや匿名掲示板にもしばしばこのテーマを訴える人が現れては袋叩きにあっている。

親をいつまでも恨むことは幼稚であるという風潮により罪悪感を覚えることで、恨むことをやめられない人間はダブルで傷つく。私も長年その一人だったが、本日新しい視点を思いつくことでかなり捉え方が変わったので、苦しんでいる人に読んでもらえると嬉しい。

子供時代、めっちゃツライ

視点の変化までを説明するには、恨みの背景をまず書かねばならない。個人的な生い立ちの記のようになってしまったし長いので、だるい人は流して読んでほしい。

一旦話がずれるが私の実家は商売をしており、毎週少し手伝いに行っている。最近「納得するまでとことんこだわる」系の客にスタッフが翻弄されているそうだ。「悪気がある人じゃないんだけどね、細かいんだよ」と言う父に母は「そういう人いるわよね。・・・でも本当は悪気があるのかもしれないわよ」と言う。思い立つとまた繰り返し言う。

変に独り言がしつこいので、「引き寄せの法則」マニアの私は「こういうネガなセリフ聞きたくないのにな・・・」と微妙な気分になるのである。

さて、商売を始める前両親が何をしていたかというと、宗教にハマっていた。

具体的な名前を出すのは控えるが、終末思想に傾倒していて、神の御心にそぐわないものは審判の日に滅ぼされると信じていた。死ねば罪は禊がれ、審判の後に死者は復活するので、罪深いまま審判を迎えるくらいならその前に死を迎えたほうが望ましい、というのが(明言はされなくとも)根底に暗黙としてあった。

子供が「滅ぼされない」ために親たちはなんでもした。宗教上の理由で医療を拒否して亡くなった子供の事件は報道もされた。

自分の子供への体罰は許されるどころか奨励されていた。親たちはお手製の体罰道具を持ち歩いていて、長い「集会」の最中子供が飽きてぐずり始めるとトイレに引きずられていき、ご自慢の道具が風を裂く音(ホースが多かった)と子供の悲鳴が聞こえて来るのは日常茶飯事だった。

子供の側からしてみればもちろん、叩かれるのは辛かった。「鞭だね!」という執行宣告を恐れる生活は疲れたし、中学に入っても叩かれるために自分で下着を降ろさなければいけないのは苦痛だった。

なにより、宗教上の理由で校歌を歌えないことや騎馬戦に参加できないこと、生徒会選挙に投票できないことを教師に説明する際「親に言われたから」ではなく「それが自分の信仰だから」というスタンスを取らなければいけないのが辛かった。

小学生の時分は教師に言い負かされ家で親に叱られ、再度交渉するもまた言い負かされ家で叱られる往復が続きほとほと疲れたのを思い出す。

もちろん子供なりに抜け出そうとした。反抗もした。親もそれをどうにかして押さえつけようと必死になっていた。どの家も荒れていたと思う。

今思えば、それはハラスメント

両親の口癖に「ここはお父さんの家であってお前の家ではないのだから」というものがあった。自分で身を立てられていないものは自由に振舞うことはできない。普通の家でも使われるセリフだろう。

しかしこのセリフで拘束される時、私はべつに夜遊びをしたがったりタバコを吸いたがったわけじゃない。ただ放課後に夕方までは友達と遊びたかったり、文化祭の劇に参加したかったり、日曜に友人達と舞浜で1日過ごしたかったりした、それだけのことだ。

それらは全て上記のセリフとともに「宗教の活動に支障がある」「宗教思想の成長に支障がある」という理由で禁止された。

今思えば、これは経済的DVである。なんか名前がつくと気持ちから分離できたような気がして便利だね。

高校時代になると、その宗教をドロップアウトする子が現れ始めた。親が抑えつけきれなくなったのだ。私も本気でやめたいと話してみよう。心から話したらわかってもらえるかもしれない、と思った。

渾身の訴えに対する両親の返事は「ではこれからは当然オール5を取ってくるのだろうな」というものだった。

本来学校の成績はオール5を取って当然のところを、宗教活動に時間を割くために実現できないことを今まで許されてきたのだから、今後は許すことはできない、というものだった。

「ちょっと何言ってるか分かんないです」という言葉があの時あったなら。塾に通っている子たちも取れないものを無理難題である。そもそも私は発達障害だ(当時は判明前だが)。当時から成績表の上下は極端にバラついていた

それ以上に、家庭でもらえる愛情や価値に条件が付いていること、自分にはこなして当然のノルマがあらかじめ設定されていて、達成して初めてこの家での存在が許される、という理屈に呆然とした。

反抗期真っ只中、かなりの勇気を出して涙ながらに開いた心に切り込まれたこの仕打ちはかなり効いたと思う。絶望した以外の細かい情景をよく覚えていないからだ。

今思えばこれはモラルハラスメントである。

当時は上のようにその理屈を分析することができず、ただ「じゃあなんで産んだの?ただ居たらいけないならなんで産んだの?」という呆然だったが。

大人になっても消えない私の「産んでくれって頼んでないよ」というショーペンハウアー的な僻みはおそらくこのあたりから来ている。

思えば幼少の頃からこの原理の片鱗はあった。

集まりに行くのを渋ったところ「じゃあもうご飯と梅干ししか食べられないね」と言われたことがある。

この世にはご飯と梅干ししか与えられないような子供もいるんだから、いうことを聞かないならそういうレベルまで待遇を落としても文句は言えないね、と補足があった。多分小学校低学年くらいだったと思う。

成長のために 手放さなければ

自己啓発にもスピリチュアルにも「過去を手放すべき」「加害者を許すべき」という教えがある。それは自分の成長のためであり、抱えて許せないままでは前に進めないのだ。

著名なスピ系ブログにも「それがその時のその人の精一杯だったのです」という記述があった。確かに親は必死であった。

私も成長したいし何より運気を良くしたいので「あれが彼らのその時の精一杯で、愛情だったのだ」と結論し、そう思うよう努めてきた。

それこそ「いつまでも親を恨むのは幼稚である」というあのフシギ理論に無理に寄り添った。

彼らが私に押し付けてきたことは確かにおかしい

でもそれは宗教の教えのせいで、行動のベースはきっと愛情だったのだ

だってどんな卑劣な手を使ってもこの道に留めておかなければ、子供は「滅ぼされて」しまうと信じていたのだから

教育方針の情報源を間違ったせいで結果的に卑劣な手段になったのだ

その時はそれが親の精一杯だったのだ。結果的には傷を受けたがそれは愛によって与えられたもので、誰も悪くないし責められない。それが「親も完璧じゃない」ということなのだ

終わった話なのだからいつまでも思い出して泣くほうがおかしいのだ

・・・ところがどっこい。何年どのメソッドを重ねても全く手放せない。手放せたような気になることはある。親とも今現在うまく明るくやっている。毎週顔を合わせているのだから、普通の家族より密なくらいだろう。

昨日も母の「そうね、悪気はないのよね。でも実は悪気があると思うべきかもしれない」というセリフを聞いて「今週も言ってる・・・」と苦笑したばかりだ。

ところが今朝、眠りと覚醒の間で急にすべてのパーツが嵌った。

あったのだ 悪気があったのだ

それは自分でも意識していないかもしれない悪気。愛情という大義名分で相手を導くていをして、その実は己で身を立てようのない相手を翻弄しコントロールする暗い悦び・・・

そうだ あれは悪意だったのだ

人は愛しもし、虐げもする

ただいま14:23。昨日の私は確かに親を恨んでいたが、いまは少なくとも「恨んで」はいない。それは大人になって親の苦労が身に沁みたからとか、子育てにおける愛情の複雑さを理解したからではない。

単に あんなことをする奴はバカだからだ いじめっ子だからだ 

バカに迷惑をかけられると腹が立つが、いつまでも恨むのは時間の無駄である。だってバカには恨む側の正当性を理解する頭がないからだ。

いじめっ子のしたことに傷つくのは当然だが、これもいつまでも恨むのは時間の無駄である。「自分より弱いから→いじめる」というイカれた回路の持ち主だからだ。キ◯ガイに道理は説けない。

もちろん私を育てていた期間の全てにおいて、両親がいじめの精神を発揮していたなんてことはない。

二段ベッド上段の私の布団を母が整えていた際に底が抜け、骨折した瞬間に出た言葉は「この子じゃなくて良かった」であったし、父は私を母の体罰から守るために幾度も心身を傷つけた。

ただ、子供に対して愛情深い部分と、バカな部分と、いじめっ子の部分があったというだけだ

この相反する側面を、相手が親ゆえに「すべて複雑な愛情だった」と一つの特質として捉えようとするから、恨む側に混乱や罪悪感が生じるのだ。

恨みの気持ちを手放したい時、相手が親であればこそ「親の苦労が身に沁みたから恨むのをやめる」なんて綺麗に納めることにこだわりがちだが、果たしてそれで心底納得いっているだろうか。

手放す、許すには必ず「納得」することが必要だし、納得するためにはロジックを理解することが不可欠である。

「こいつらはズルくて弱くてバカだから、時間を割くのは無駄」という納め方の方がよりしっくりくるなら、それでいいではないか。

恨むことをやめられなくて「幼稚」な自分に罪悪感があってダブルで苦しいという人に、個人的経験ではあるがこの気づきが少しでも役に立てば、と思っている。

(微妙に起承転結になっていないので加筆修正までβ版として残しておきます)

(引き寄せ実践者にめっちゃ伝えたいこの記事の編集後記的なものはコチラ)

よろしければよろしくです
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